俊足の風魔 二曲輪猪助

本日1月10日は十日戎(とおかえびす)でござる。
戎とは恵比寿様であり、商売繁盛を願う神事でござるな。

そして十日戎で有名なのが、福男で知られている兵庫県西宮市の西宮神社にござる。

開門と同時に数多の男たちが本殿を目指して走る例の行事でござるが……実は2013年に小田原にて開催された第一回天下一忍者決定戦による六代目風魔小太郎襲名をかけた戦いはこの福男選びを参考にしたものと考えているでござる。

さて、そんな六代目風魔小太郎を決める大会でござったが、拙者は風魔小太郎よりふさわしい忍者の名が頭に浮かんでいたのでござる。
それが、俊足の風魔忍者『二曲輪猪助(にのくるわいすけ)』でござる。


二曲輪猪助は風魔衆の中でも俊足で知られ、また強靭な精神力と忍びの技も習得していた。

1545年に関東管領の山内・上杉憲政、扇谷・上杉朝定、古賀公方・足利晴氏らが連合した80,000の軍が北條綱成が3,000で守る河越城を完全に包囲したことに始まる河越城の戦いの中での出来事でござる。

勇猛をもって知られる綱成は、6ヶ月にわたり連合軍を押し返し、援軍を待っていた。

一方、北條氏康は8,000の兵を率いて救援に向かうも敵は約10倍……まともに戦っても勝ち目がない。

氏康は、河越城を明け渡す代わりに将兵の助命を願う使者を連合国の各大将へと送り、油断を誘った。

敵の将兵が油断しきったある夜に北條軍は一気に攻めかかり、連合兵が慌てふためいたところを、河越城から打って出た綱成がさらに強襲し、瞬く間に連合軍を打ち破ることに成功した。

この「河越夜戦」は毛利元就vs陶晴賢の「厳島の合戦」、織田信長vs今川義元の「桶狭間の合戦」と共に戦国3大奇襲作戦と称される快勝作戦でござった。

そんな河越夜戦の中で、二曲輪猪助は風魔小太郎の命により雑兵として上杉朝定の陣に潜り込んでいた。

北條氏康が半ば降参したと思い、油断している連合軍の布陣の様子を子細に報告していたのである。

しかし、そんな猪助の存在に気付いたものがいた。
上杉憲政に仕え、早駆け名人と称されていた忍者・太田犬之助である。

正体を見破られた猪助は、かろうじて逃げ出したが犬之助は猪助の後をしつこく追った。五、六里ほど走るも、相手は「犬」と名乗る俊足の持ち主でなかなか引き離すことが出来ない。
猪助は途中の農家に繋がれている馬を発見し、これに乗って何とか北條の陣へと帰り着くことができたのである。

しかし、馬に乗って逃げた猪助を卑怯者と馬鹿にする落首が扇谷の陣に張り出されることになった。

「駆り出され逃げし猪助は卑怯者、よくも太田(追った)が犬之助かな。」

 

猪助のもたらした情報により、北條軍は連合軍を破り勝利することとなったが、猪助は落首の恥辱をそそぐべく改めて犬之助へと術の勝負を申し込んだ。

二人は河越から西へ十里、野も山もなく全力で駆け続けた結果、犬之助は息を切らせて死んでしまった。

見事に猪助は恥辱をそそいだのである。


いかがでござろう。

やはり風魔の早駆けと言えば二曲輪猪助を置いて他にないでござる。

いつか2代目二曲輪猪助を決める大会などひらかれぬでござるかね。

 

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