戦国最強 風魔忍者!

卍 風魔とは 卍

そも、風魔とは何か?

端的に言ってしまえば、小田原を支配していた北條氏に仕える忍者集団である。

ただ、風魔についてはの歴史的資料は極端に少なく謎に包まれた忍者である。

彼らは、金太郎で有名な足柄山の麓にある風間谷を本拠に、北條早雲(伊勢盛時・伊勢新九郎)の相模進出の頃から諜報・偵察・撹乱などで活躍し、100年にわたり北條氏に仕えてきた。

風魔忍者は騎馬の扱いが巧みで、機動力を活かした神出鬼没な奇襲を得意としたと言われており、代々その長は風魔小太郎と名乗っていたとの話でござる。

敵陣に忍び込んでは、敵将を生け捕りにし、馬の綱を切っては暴れさせ、方々に放火を行い、惑う敵兵を切って回り、各所で勝鬨をあげては混乱をもたらす等々、とにかくゲリラ的な攻撃により他国に恐れられていた。

そんな中でもとりわけ有名なのが、1580年に武田勝頼を破った黄瀬川の戦いである。

卍 黄瀬川の戦い 卍

大軍で押し寄せる精強な武田勢に対し、北條勢も軍を率いて黄瀬川で対峙した。

その戦いの際に、風魔衆の長である風魔小太郎は200人の風魔忍者を引連れ、夜であろうが、強風であろうが、大雨であろうが黄瀬川の激流をものともせず武田の陣営へ奇襲をかけた。

風魔小太郎率いる一団は、手当り次第に将兵を生け捕りにし、陣馬の網を切り、火をつけて回り、いたるところで勝鬨をあげ、武器・食糧を奪っては引き揚げていったのである。

大混乱の一夜明けてみると、そこかしこに同士討ちをして果てた味方の死体が転がっており、あまりの惨状に武田勢は震え上がったとの話。

このような夜討ち・奇襲が毎日のように続いたため、風魔衆に一矢報いるべく、武田勢の兵士10人程が、夜討ちから引き上げる風魔衆に紛れ込むことに成功した。

武田の陣営より引き上げた風魔忍者たちが風魔小太郎のもとへ集まったそのとき、突如小太郎が合図を出した。

すると風魔忍者たちは合図に合わせ、互いに声を出し合いながら、さっと立ち、さっと座ったのである。

これぞ、風魔の符牒「立ちすぐり、居すぐり」である。

武田の兵士たちは、この符牒を知らなかったため、たちどころに正体を見破られ切り殺されてしまった。

かくして、風魔の恐ろしさを知った武田勢は「怨めしの 風魔が忍びや、 あら辛の乱波が夜討ちや」と嘆き、甲斐の国へと逃げ帰ったとのことである。

北條は武田のみでなく、上杉・徳川とも幾度となく争いを繰り返している。

武田信玄・上杉謙信・徳川家康といった名だたる武将たちは、忍者の扱いにも長けていた。

北條氏が彼らと対等に戦えたのは、戦国最強の忍者である風魔衆があったからにほかならぬのではなかろうか。

卍 風魔忍者の誕生 卍

風魔忍者は修験者のから発生したと思われる。

風魔忍者の前身は渡来民だと言われており、大陸より日本へと渡ってきた彼らは漂流の民、山の民として旅をしながら日本の各地を巡っていたでござる。

そんな彼らは、やがて修験道の祖たる役小角と出会い感化され、修験者としての道を歩み、箱根の足柄山にある風間谷に村を作り、風間と名乗り修業を続けていくことになるのでござる。

さて、平安時代の末期から鎌倉時代の関東といえば、地方豪族たちが荘園をめぐって日々争いを続ける荒れた地でござった。

箱根で修業をしていた風間の者たちも、やがてこの争いに加わることになる。

伊賀や甲賀の者たちもそうであるように、忍術のルーツには修験道(山伏法)があり、箱根の修験者である彼らの力は、争いを続ける地方豪族たちから必要とされるものであった。

風間たちは近隣で戦が起これば、諜報、偵察、攪乱などの仕事を請け負い金を稼ぐようになっていったと言われているでござる。

そして、室町時代の末期に北條早雲との運命の出会いを果たし、主従の誓いにより以後100年に渡り、北條の世を支えたのでござる。

卍 風魔忍者の戦い方 卍

風魔忍者の主な特徴として、雇われの傭兵ではなく、特定の主に忠誠を誓う存在であることがあげられる。

その戦い方はゲリラ戦法であり、風魔の名が示すように疾風のごとき現れては消える奇襲が得意であり、その攻撃は苛烈にして残虐であり、歴戦の武将たちを恐怖に陥れた。

また、その主力部隊は約200名と言われており、頭領の風魔小太郎のもと「強盗」「窃盗」「山賊」「海賊」と4つの専門部隊に分かれていたと言われている。

風魔忍者の武器についての資料は殆どなく、鉄砲を使ったという形跡もない。
得意の奇襲攻撃を行うにおいて、刀槍などの白兵武器を用いての素早い突撃、殲滅戦に重きをおいていたものと推測する。

さらに、北條早雲が風間を欲した理由としてあげられる乗馬技術は巧みを極め、箱根の険しい山々を馬で軽々と駆け巡ることができたと言われている。
これこそ風魔の奇襲作戦を支える大事な機動力であり、この技術は黄瀬川の戦いにおける奇襲の際にもその真価を発揮している。

また、苛烈な攻撃性と共に用心深さと結束力を備えており、その見事さは奇襲攻撃からの引き際の鮮やかさや、立ちすぐり居すぐりといった味方選別の法に通じている。

風魔忍者は他の忍者手段に比べても極めて戦闘力が高く、それこそが戦国最強の忍者集団たらしめたのではないかと思うでござる。

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